❖仏教の最高峰❖      

     

  頂乗仏教学舎ブログ https://bongteng.hatenablog.jp

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路傍の如来 如来品正師.多々方路傍石です。

貴方の幸せ.平安.安楽.静逸のお役に立てるご縁を願い、本欄とブログを作成しています。

ご意見.ご質問.ご相談など有りましたら是非お気軽にご相談下さい

如来とは神でも偶像的な仏でもなく、真理と智慧に基づき人々を真の幸福.真に価値ある人生へと導く、かくの如く来たりて.かくの如く去り行く.正しい師である...聖なる如来の導きにより.人は誰もが菩薩へと生まれ変わる

その資質は誰でもが具している、ただ正しい方向へと導く正師(如来)に巡り合えずに無明で盲目的な系譜に連なって来てまっただけ...

如来は.無明を乗り越え(超越).目覚め(覚醒).解き放たれた(解放).自由で真の幸福へと導く。

仏教とは幸せに生きる為の宗(むね)となる教えであり、得体の知れないものへの信仰ではなく釈迦尊(ブッダ)は無明なものへの信仰を明確に否定され釈迦尊(ブッダ)在世当時において歴史と権威とにより人々に信仰を強いていた大乗仏教や日本仏教が手本とした[バラモン教]の説く神々の存在を体験的に修養により目覚め.乗り越え.解き放たれ.到達され発見された真理に基づき明確に否定された[目覚めた人]こそ釈迦尊(ブッダ)であり、部派仏教と化した上座部仏教をも憂い、真の釈迦尊(ブッダ)の教えを説き伝え.人々を平安と歓喜と幸福へ導く為に.如来は出世し[頂乗仏教学舎]を起こす

☣大乗仏教(マハー.ヤーナ)も相互依存の関係性(縁起)に於ける悟りの深さを象徴化(シボライズ)した天部.菩薩.如来への敬虔な信仰心を.得体の知れないものへの信仰へ誘う本質を有し.小乗仏教(ヒーナ.ヤーナ)とも呼ばれる上座部仏教も、頑な部派仏教でしかなく教論(アビダルマ)に捉われ到達を自ら阻んでいる煩悩に征服され.虚妄に勤しみ.権威に阿る.退廃した現世に出世なされた如来は人々を堅固な[こよなき幸せ]へ導く.お釈迦様の至高な頂乗なる仏教(ダルマ.ヤーナ)を差し示す。

因縁起果報

★先祖崇拝は在家の習俗であり仏教ではありません。

★仏教は自分に気付く処から始まります。

★仏教は無明な信仰や妄信をから目覚め覚醒し,乗り越え超越し.解き放たれ解放され.自由になる為の教えです。

★信心ではなく理解する事が仏教なのです。

★仏教は厭世的でも刹那的でも享楽的でも妄想的でも権威的でもなく、超現実的で真に平等で寛容な教えです

★仏教は生存苦(ドゥッカ)を取り除き、平安.安寧.悦楽.歓喜.静逸.満足を与えてくれる教えです。

                  

世界は燃えている。利己的な欲望の炎で燃え盛っている。その利己的な欲望の炎により国家.集団.個人に至るまでが争い.殺し合い.騙し合い.憎み合ってゆく、その利己的な欲望こそが.諸悪の根源である事に気付くこともなく。

人は誰でも無知(無明)で生まれている。そして人は無知(無明)の闇の中を手探り目的に生きている事に気付くことが出来ないまま、諸行無常な世の中で.何かしらの変化や移ろいに直面したときにドゥッカ(苦しみ.悩み.憂い.哀しみ.迷い.悔い.心の痛み.恐怖.虚しさ.儚さ.弱さ.脆さ.惨めさ.実質のなさ.無常.無明.不安定さ.不完全さ.欲望…)に気付く。

人は自分の無知(無明)に気付けなければ、成長してゆくことも出来ないものである。

人はいつまでも無知(無明)のまま生きて行くと渇望(煩悩)により感覚的に生きてゆく事となり主観的な自我意識に翻弄される

人は自分の無知(無明)に気付けないと主観的に考えるようになり、能力が全く達していなくと分に自惚れて、学んでゆくことが出来ないから何時までも無知(無明)なままである

人は自分の無知(無明)によりあらゆる物事に縛られ、自分に拘り捉われ自縛してゆき、窮屈生き方をしてゆく事となる

人は自分の無知(無明)に気付けなければ、本質的に虚無(空)でしかない自分に拘わり捉われ縛られ、あらゆる物事に縛られ不安定な渇望に翻弄され、矢張り本質的には空虚でかない便宜的な付随(手段)に過ぎない所有の次元の物への欲望と執着により満足や喜びや快楽を得ようとするが、決して満たされる事も尽きる事もない煩悩の要求により、無知(無明)で虚無な存在(自分)は空虚な人生を送ってゆく事となる

人間は本質的なドゥッカ(不完全.不安定.苦.痛み.悩み.哀しさ.脆さ.弱さ.儚さ.虚無(空相).怖れ.愚かさ.本質の無さ.惨めさ.無知(無明).ど)のエネルギーにより生きている。

その本質による根深い自己防衛・自己保存への欲により、子供が親に自分の保護・安全・安心などを渇望するように、自己防衛の欲により神や仏や超越的な力の存在を妄想し投影した。

また自己保存欲により永遠的で主宰的.実存的.実体.実相的である魂・霊魂・霊体などを妄想する

それらは欲心の投影(幻影)に過ぎない。

無知(無明)で虚無な存在である自分が、空虚で付随物(手段)でしかない事物に翻弄され、その心の投影(幻影)でしかない妄想の中を錯覚して生きてゆくほど空しい人生はない

釈迦尊(ブッダ)は無知(無明)による斯うした迷信的・倒錯的・妄想的・非現実的な妄迷な呆けた幻想から、乗り越え(超越)解き放たれ(解放)目覚める(覚醒)事を促されたのである。

虚無な自我や空虚な物事や妄想的幻想などを依り処(精神的支柱)としないで、この世界の中で対的な実存である真理「摂理」を依り処(精神的支柱)とする。

真理だけを拠り処とし、安定した心の状態が涅槃(ニルバーナ)であり実存的な平安と悦楽と静逸な世界を体現できる。

如来は人々への、愛と慈しみと憐れみから、真理を説くのである。

真理を覚り、目覚めてゆく人々こそが真に幸せな人々と成ってゆくのである。

今持っている偏ったり間違ったりした見解や概念や観念や思想を捨てる事が智慧である

知識や情報や記憶など何の役にも立たず、心が理解した智慧こそが真に自分を助ける。

自分という存在の真の価値や意義は、心の浄化であり徳を積む事であり人としての質(クオリティ)め、人格を磨いて、光り輝く存在に成ってゆく事により叡智が現われてくる。

「業(カルマ)」とは、精神的な境地であり、存在の性質(本質的意志)こそ精神である。

                   

               祝福の啓示 

如来品正師 多々方路傍石 伝説 

諸国を行脚しながら、猛暑の夏.寒中の冬も厭わず托鉢.辻立ちの幾星霜の日々…縁あって上野不忍口を[心の沐浴場]と定め、右手には暮らし貧しき者達が群れ、左手には心の貧しい者達が行き交う.辻に立ちて凡そ十五年が過ぎし夕刻、天空.俄かに明らみ、世界はその動きを止め.光音天の調べと.法華の芳しき香りに我れ包まれたり…

大梵天は緒天を随えて勧請になされた

「嗚呼、今のままでは此の世は終わる、今のままでは此の世は壊れる。

汝、完成者よ、清浄なる梵天界にまで達したる其の成道を天と神仏は祝福するだろう

大地は喜びに打ち震え、海は大波となって歓喜し、星は落ちて光り輝き祝福するであろう

我れは汝に釈迦牟二(シャキムニ)に授けたる如く三如を授けん、既に達したる六神通と三如の神通力により九神通へと至るものである。その法力により天と地上と迷界、地獄界に至るまで遍く施し救い導かん事を懇請するものなり、そして釈迦牟(シャムニ)の至りたる無上なる等正覚は如来であり新たなる如来の誕生であり弥勒の出現である。 

この懇請を受けし来なり今より汝は如来品である」賜号なされた 

帝釈天が緒神を随えて来迎なされた

「嗚呼、今のままでは此の世は終わる、今のままでは此の世は壊れる。

汝、完成者よ、清浄なる梵天界にまで達したる其の成道を、天と諸神仏は祝福するだろう。大地は喜びに打ち震え、海は大波なって歓喜し、星は落ちて光り輝き祝福するであろう。その法力により天と地上と迷界、地獄界に至るまで遍く施し救い導かを懇請するものなり、この釈迦尊(ブッダ)の達したる無上なる正覚は如来であり新たなる如来の誕生である。そして人間への審判を汝に委ねるものである。汝が彼岸に至るとき、この人間界の存続か断滅して新たなる命の世界を創造すべきかを神仏問うであろう。

汝の審判により人間界は滅しもし栄えもしようこの勧請は無上等正覚者を祝す」    

仏界より釈尊が諸仏を随えて降臨なされた

「嗚呼、今のままでは此の世は終わる、今のままでは此の世は壊れる。我が頂上なる弟子よ、完成者よ、到達者よ...

過ぎ去りし時は、我が教えさえも無常なるものと成さしめ、真理に到達する少なく、大悟を顕現するものなく、我が教

え正に朽ち果てんとする時、現れし我が正統なる教えを継ぐ如来よ、世界を救え...」

そして汝、如来にこの大宇宙の生滅を託すものなり…

この大宇宙が継続するも、滅して新たに創造すべきなのか…[空の崩壊]は三十余光年先の時空で既に始まった…汝の計らいに託されるものであり…これが[大宇宙の絶対意志]でもあるのだから…

                  頂乗仏教学舎

  如来品正師 多々方路傍石

  Eメイル bongteng@live.com

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